田沼意次が目指した「重商主義」とその再評価
蔦重をめぐる人物とキーワード⑥
しかし一方で、賄賂や不正が横行するなど、負の面も少なからずあったとの指摘がある。意次の屋敷には大勢の商人が高価な贈答品を持参して訪れていたとする証言も、その根拠のひとつである(『甲子夜話』)。このことから、意次の行なった改革は「賄賂政治」、意次自身は「賄賂政治家」などと揶揄されてきた。かの徳富蘇峰(とくとみそほう)も「賄賂の問屋」などと称して意次を毛嫌いしたと伝わっている。
さらに、江戸の4大飢饉のひとつといわれる天明の飢饉(1782〜1788)をはじめとした天災が重なると、米価の高騰と農民による暴動の頻発を招いた。一説によれば、これらの飢饉による餓死者や病死者の数は30万人にもおよぶという。こうした混乱の責任をとる形で意次は退陣した。
直後に老中に就任した松平定信(さだのぶ)が実施した「寛政の改革」では、商業から再び農業重視の政策に戻され、田沼政治は徹底的に否定された。また、株仲間による冥加金収入が幕府財政にどれだけ寄与したのか、疑問視する向きもある。
しかし、近年では幕府の収入の多様化を図り、商業の重要性を認識させたことは先駆的な政策であるとの評価が高まっている。そもそも、出世を図るために付け届けを権力者に贈るのは当時としてさして珍しいことではなく、取り立てて意次のみに起こった現象とはいえない。意次をめぐる悪評は、後世にことさら強調されたものという研究もあり、殺害を目論むほど意次を憎んだという政敵・松平定信による印象操作との見方が主流になりつつある。
その後の幕府において、重商主義が根付くことはなかったが、幕末に力を持った藩は、いずれも商業による藩財政の活性化に取り組んでいることも見過ごせない。その代表的な藩が薩摩(現在の鹿児島県)と長州(現在の山口県)であり、この二藩が討幕の旗印となったことは象徴的といえる。つまり、やがて日本が迎える近代化の起点として、田沼政治を捉えることもできそうだ。